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柔道の教育的価値

 1つの形は、私が「模倣の形」と名付けたものです。これは理想や感情、自然物の色々な動きを、手足や身体、首の動きで模倣する方法です。ダンスを踊ることはこの一例ですが、もともとダンスには、その目的に身体教育の工夫は成されておりません。それ故これらの要求を満足させられるとは言えません。しかし、異性や精神と身体条件を組み合わせることが出来、また道徳感と感情を表現出来るので、特別なダンスを工夫することは可能でしょう。それに国民精神の涵養面を組み合わせると、多分、全てに適した身体に発達させることが出来るでしょう。

この「模倣の形」は、欧米では幾つか実践されておりますから、皆様には私が意味するところは想像出来るものと思います。ですから私はこの場でこれ以上、この事に就いては触れないこととします。

私が「攻防の形」と名付けた、いま1つの形があります。ここでは攻撃と防御の異なる技を組み合わせました。この方法は、全身の調和的発達を助けるものとなるでしょう。柔術で教える攻撃と防御の一般的な技は、身体の発達に理想的であるということは言えません。私は技を特別に組み合わせることで、身体の調和した発達に必要な条件を満足させたのです。これは2つの目的に適うということが言えます。(1)身体上の発達と(2)競技用の技の練習です。各国の国民は、万一の時の守りに備えることを求められています。それにはまず各個人が、自分自身をどのように守るかについて知っておかなければなりません。文明開化のこのご時世では、どなたも国の侵略や他人による個人的な暴力に対する備えなどについて、関心は持っていないでしょう。しかし、正義や人類愛のための防御は、国家または個人として無視してはいけません

柔道の教育的価値04

 ここで私は「攻防の形」による体育を、実演で披露します。この演技は2つに分けられます。1つは個人で行う演技であり、もう1つは相手と行う演技です。(実演)

私が演技中に説明しながらお見せしたところから、私のいう最善活用の原理による体育の意味するところを、皆様には疑いなくご理解頂けたと思います。全国民の体育はこの原理が受け持って然るべきであると、私が例え強調しても、私が体操や色々な武術を、ないがしろにしろといっているのではありません。(攻防の形が)例え一国の全国民の体育に、更には1グループもしくは複数のグループでの修練には適していないと言われても、なお特別な意味はあるのですから、私自身としては決して柔道、特に乱取を過小評価しようなどとは思いもしません。

乱取の価値の大きな1つは、身体の発達をもたらす多くの動きを備えていることです。他の価値としては、個々の動きはそれぞれ何らかの目的を持っており、それに応じて精神を鍛えることです。一方、普通の体操の動きでは興味を欠きます。柔道の系統だった身体トレーニングの目的は、身体の発達のみならず、男性もしくは女性が自分の心と身体を完全にコントロールし、実際の事故または他人からの攻撃であるのかを問わず、どんな危機に遭遇しても、事に対応出来るようになってもらうことにあります。

柔道の形と乱取は、共に稽古用の特別な道場で普通2人の間で行われるとはいえ、この様な道場は常に必要ではありません。グループでも個人でも、運動場や普通の部屋でも稽古は出来ます。皆さんは、乱取で投げられると痛いだろうとか、時には危険だと想像されるでしょう。しかし、受身を修得する方法を皆様に少し説明すれば、さほど痛みや危険がないことを、理解してもらえるでしょう。

柔道の教育的価値05

 さて、次に柔道の知的な面に就いてお話しします。柔道において、知的面のトレーニングは、乱取のみならず形によっても行うことが可能ですが、乱取の方が上手く行きます。乱取は2人の人間の間で、使える全ての能力を用いて、柔道が定めるルールに従って戦うので、両者は常に十分油断なく相手の弱点を見つけることに腐心し,技を掛ける機会があれば、いつでも仕掛けられる心構えをしておかなければなりません。この様に仕掛ける技を工夫している時の心の状態は、戦っている者に自分の動きに対する集中力と、真剣さや思慮深さ、慎重さをもたらす効果があります。同時に乱取では、即断しなかったり瞬時の行動をとらなかったりすれば、攻撃もしくは防御の何れの場面でも常に機会を失いますから、即決と瞬時の反応が訓練されます。また乱取では対戦中に相手はどんな技を掛けるか言ってくれませんから、常に相手の突然の攻撃に対する受の心構えをしておかなければなりません。この種の精神的覚悟を持てるようになれば、その人は精神の平静―「安定」の高段者の域に達したと言えます。道場もしくはトレーニング場における注意力と観察力の修練は、自ずとこの様な力を育て、日常生活で非常に役立つことになります。

相手を倒す技を工夫するための想像力と推理力、判断力の修練は不可欠であり、この様な力は自ずと乱取で育まれるのです。更に乱取の稽古は、2人の対戦者の間に存在する関係、精神と身体に就いて学べるのです。沢山の教え方が、この稽古法から工夫出来るでしょう。しかし私は現在の所、2、3の例を挙げておくことで満足することとします。乱取では、私たちは門人に、常に柔道の基本原理に適った行動をとるようにと教えています。相手が自分より肉体的に劣っていると見えたとしても、例え絶対的な強さで容易に相手をやっつけることが出来ようとも、そんなことは取り立てて言うことではありません。人がこの原理に反した行動を取るならば、例え獣のような強い力を用いようとも、相手は決して自分の敗北を認めないでしょう。議論で相手を納得させる方法は、押しつけではなく、もしくは力や知識、富の力で人を凌ぐのではなく、論破されない論理の法則によって人を説得するのだということは、皆様にご留意願う必要は殆どないでしょう。強制より説得の方が効き目があるのだというこの教えは、実生活では非常に価値のあるものですが、私たちは乱取からこのことを学ぶことが出来るのです。

加えて私たちは、門人が相手を倒す何か上手い技を教えて欲しいと頼んできた時には、力の出し過ぎや、出し惜しみの何れに就いても注意を与え、当の目的に必要なだけの力を使うことを教えます。人がやり過ぎたり、反対に止まるところを知らなかったりの理由で、企てが容易に失敗したケースは、少なくありません。

乱取でもう1つ例を挙げると、私たちは門人に、気が違ったように興奮している相手と対戦した時、勝ちを収めるには、相手に力と力でまともに対抗するのではなく、相手の非常な激しさや力が自ずと消耗される後半まで、相手と取り組み続けるようにと教えます。

他人との毎日の付き合いでこの姿勢をとることの有用性は特許物です。良く知られているように、殆ど常軌を逸しているように見えるほど興奮している人を相手にする時、私たちの道理の多くは通用しません。この様な場面で私たちが執るべきことの全ては、相手の興奮が自ずと静まるまで待つことです。この様な教訓は全部乱取の稽古から学ぶことが出来るのです。日常の諸々の行為へ応用することは、非常に興味ある且つ学ぶに値する事柄であり、若い人の心のトレーニングとして価値があります。

私は、知識と知力を増進させる理性的な方法について、些か言及し柔道の知的面の話を終えます。

柔道の教育的価値06

 社会をよくよく観察すると、私たちは至る所で知識の獲得に用いられるべき精力が、馬鹿馬鹿しいところで浪費されていることに気が付きます。私たちの周りは、常に有用な知識提供の機会を与えてくれていますが、私たちの方が何時もこの様な機会を最善に活用することなく、無視をしているのではないでしょうか。私たちは自分が読む本や雑誌、新聞を選ぶのに、常に最善の選択をしているでしょうか。有用な知識を得るために使われるべき精力を、しばしば自分のみならず、社会に損害を与えかねないようなことに、楽しみで使っていることに気付いてはいませんか。

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