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柔道の教育的価値

  「柔道を教育に役立てることについて」
   嘉納治五郎師範

 日本の高等師範学校名誉教授・前校長(注1)、並びに貴族院議員、講道館(柔道の研究指導機関)館長、(柔道並びに講道館創立者)、大日本体育協会名誉会長(創設者にて前会長)。この講演は1932年第10回(ロサンゼルス)オリンピック大会(注2)の機会に南カリフォルニア大学にて行われた。

 この講演の目的は、皆様に柔道とは何かと言うことを、ごく一般的にご説明をいたすものであります。日本の封建時代には、剣術や弓術、槍術など多くの武術がありました。その中に、場合に依りましては短刀や刀剣類その他の武器を使う事もあるのですが、原則として武器は用いない術で戦う柔術と呼ばれます武術がありました。
  攻撃の方法は、主に相手を投げたり、打ったり、絞めたり、抑えたりなどで、また相手の腕や脚の逆を取るとか捻って痛めつけたり、骨折させたりするやり方でありました。刀剣や短刀の使い方を教えることもありました。この様な攻撃法に対し、防御法もまたありました。この様な原始的な武術は、私共の神話時代にもありましたが、しかし武芸として系統だった指導はほんの350年位前から始まったに過ぎません。

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 私は青年時代、柔術を当時高名な3人の先生(注3)から学びました。柔術の修行から私は大きな恩恵を受け、柔術をより真剣に深めて行くことを決心し、1882年、私自身で道場を開設しその道場に講道館と名付けました。講道館とは文字の上から申せば「道を講ずる館」と言う意味であり、「道」の意味するところは、人の生活を成り立たせている本質を言うのです。私は柔術ではなく、柔道を教える目的でこう命名したのです。先ず手始めに柔術と柔道の意味するところを、皆様にご説明しましょう。柔とは、「柔らかい」もしくは「譲る」ことを意味します。術とは、「わざ」もしくは勝ちを得るために最初は譲る「技術」であり、道は「道」もしくは「原理」です。それで柔術とは、柔らかさもしくは譲る技、または技術を意味します。一方柔道の柔は、柔術のそれと同じであり、道は「道」もしくは「原理」を意味します。

 柔らかさや譲るということが意味するのは何なのか、本当のところを今からご説明します。ある単位を基準として人の強さを測定出来ると仮定します。私の前に立つ相手の強さは10を示しています。私の強さは、彼より劣って7となっています。とすれば、いま彼が全力で私を押して来たとすれば、私が全力で彼に立ち向かったとしても、後ろに押されるか投げ倒されることは明らかです。これは私が力には力でもって対抗しようと、全力で彼に立ち向かうが故に生じる事態です。しかし、抵抗せず彼が押したと丁度同じ分量を、自分のバランスに注意しながら、身を退いてかわすと、彼は自ら前につんのめりバランスを崩します。
  この新局面(実際の肉体的な強さではなく、バランスを失っている彼の状況)では、相手は通常ならば10あるのに、言ってみれば、その瞬間の強さの表示はたったの3くらい迄弱まっているでしょう。私の方は彼がそのような状況に陥ったその瞬間も、バランスを保っており、力もその侭ですから、強さの表示は元の7を示しています。その時、ほんの一瞬間ですが、私は優位な立場にあり、相手の3に対するに自分の強さのたったの半分、即ち7の半分もしくは3+1.5で相手を倒すことが出来るのです。私の力の半分は他の目的に使うために残しておけます。私の力が相手より強い場合には、勿論相手を後ろに押せましょう。しかしこの様な場面でも、相手を後ろに押そうと思ったとき、そのように力を使える場面でも、先ず最初は譲る術を用いた方がよいでしょう。なぜかと言えば、そのようにすれば、エネルギーを本当に効率的に使うことが出来るからです。
  これは譲りの技を用いて、相手を如何にして倒すことが出来るかに就いての単純な一例です。
  私の相手が私の身体(この舞台でデモンストレーションを助手と行ったように)(注4)を、あのように倒し捻ったと思ってください。私がもし相手に抵抗をすれば、確実に投げ倒されたでしょう。と申しますのは、私の力は相手を負かすのには充分ではないからです。そうではなく、もし逆に私が相手に譲る術を掛けると同時に(デモンストレーションのように)、身体を回しながら相手を端の方に引きますと、易々と相手を投げ飛ばしながら、私自身の身体は安全に地面に倒れることが出来るのです。

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 例をもう一つ挙げておきましょう。(デモンストレーションのように)私たちが片方が崖になっている道を歩いているとき、突如相手が私に飛びかかってきて、崖下に突き落とそうとする場面をご想像下さい。この様な事態で、私が抵抗をしたとすれば、崖から突き落とされることは免れないでしょう。ですが反対に、私の方がその時相手に対し譲る術を掛け、身を回転させながら(デモンストレーションのように)相手を崖の方に引きますと、相手を容易に投げ飛ばし、同時に私自身の身体は安全に地面に倒れることが出来るのです。
  私は色々な場面に於けるこの様な例を、少なからず申し上げることが出来るのですが、私のこれまでの話で、譲りの術でどのように相手を倒せるのかに就きまして、また併せて柔術の基本的な考え方には、数多くの教えるところが含まれていることから、柔術という呼び名(柔らかさもしくは譲りの術)が、この類の武術の全ての名称になったことを、皆様には充分ご理解願えたものと存じます。
  しかし厳密に申しますと、本当の柔術にはもう少し何かがあるのです。柔術で相手に勝つ方法は、譲りの術だけで勝利を得られるとは限りません。武術の試合では時には打ち、また蹴り、絞めますが、これらは譲りの術ではなく直接攻撃をする術なのです。
  時には人は他人の手首を掴むことがあります。相手に掴まれた時、力を使わずにどのようにして解くことが出来ますか。同じように、後ろから誰かに組み付かれた時に就いてもお尋ねします。この様な場面では譲りの原理、言い換えれば柔術の基本的な考えだけでは、全てを説明することは出来ません。全ての武術を本当に説明可能な共通の原理はあるでのしょうか。あります。それは心と身体を最も有効に使用する原理です。柔術の攻防の戦では、この普遍的な原理を応用しているのです。

 この原理は人間の他の活動分野にも適用することは可能でしょうか。可能なのです。同じ原理は人間の身体を改善し、また強壮にし、健康にし、動きを容易にすることに役立ちます。また体育をきちんと体系化することも出来ます。更には知力や自制心の改善にも応用が出来、この原理を適用した方法で 知育や徳育を体系化することもまた可能なのです。同時に食事や衣服、住居、社交、仕事のやり方、このような生活に係わる学習法や修習法についても、体系化することに応用出来ます。私はこの普遍の原理に「柔道」と命名しました。そうでありますから、柔道とは、広い意味では人間の生活や仕事の規範のみならず、心身学習法の一つであり、修練法なのです。
  それ故柔道では、一面では攻防の中で学び、他面では実践することが可能なのです。私が講道館を開く迄は、柔道の攻防の面だけが修練されていたに過ぎず、これを柔術、時には身体を扱う術を意味します体術とか、柔らかく扱う意味の柔と言う名称の下で稽古されておりました。しかし、私は普遍の原理を学ぶことが、単に柔術を修行するよりも重要であると考えるに至りました。と申しますのは、この原理を本当に理解すれば、人は自分が生きてゆく上で、必要な全ての事柄にこの原理を応用して上手にやって行くことが出来るし、更に柔術の技も磨けるので、大きな利益を得ることが可能なのです。
  人がこの原理を修得するには、私が行いました方法に依るだけではありません。人が日常の執務に対する冷静な判断力や、抽象的な哲学的な思索する力からでも、同じ結論に達することが出来ます。しかし、私が柔道を教え始めた時、私が目的達成の為に学んだと同じ方法で行うのが、賢明であると考えました。なぜならば、そのやり方を用いれば、門人は身体を健康に、壮健に、やすやすと動けるようになれます。同時に普遍の原理も順々に判るようになるからです。この故に私は柔道の指導を乱取と形の稽古で始めたのです。

 乱取とは自由稽古を意味しますが、実際の試合条件の下で行う実践です。相手を投げや絞め、固めで制し、相手の腕や脚の逆や捻りも使います。2人の対戦者は、互いに傷付けさえしなければ、柔道固有の挙措の本質である礼に基づくルールの下で、自分の好むどんな技でも掛けてよいのです。
  形とは文字通り“形”を意味しますが、各々の対戦者は、相手の掛けてくる技を前もって承知しているルールの下で、打ち、切り、蹴り、突き等の技を、予め決められた順序に従って行う形式的なシステムです。打ちや蹴り、切り、突きの稽古は形で学び、乱取では行いません。理由はもし乱取でしたら怪我をするからです。他方、形で教える場合には、全ての攻防の技が前もって決められていますから、怪我は殆ど起こりません。
  乱取は色々なやり方で行うことが可能です。攻防の技の習得を目的に単純に稽古をする場合であれば、身体の発達や知育、徳育には特に配慮せず、最も効果的な投げや逆、捻り技の指導を主に行うことです。
  乱取ではまた、その主な目的として身体の教育を学ぶことが出来ます。もう既に話したように、お手本となる申し分のない方法は、必ず最善活用の原理で実践されなければなりません。

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 ではこれから現在の体育システムを、どのようにすれば合格点が与えられるのかについて、見ることにしましょう。
  全ての運動競技法を取りあげてみても、何れも私には体育教育の理想であるようには映りません。何故かというと、個々の運動が身体のオールラウンドな発達のためではなく、何か他の限られた目的が狙いであるからです。更にはその運動に加わるために、特別な器具や時にはとても大勢の人々の参加を必要とするので、その運動競技法は、全国民の身体条件を改善する為にではなく、選抜された人々のためのトレーニング法にふさわしいものとなっています。ボクシングやレスリング、また世界中で行われている諸々の武術にもピタリ当てはまります。そこで皆様は、「国民の身体トレーニングの理想型は体操ではないのか」と、お尋ねになるのではないでしょうか。
  このお尋ねには、私は体操は身体のオールラウンドな発達に就いて貢献してきており、また特別な道具や多くの参加者も必ずしも求めないので、身体教育の一つの理想型であるとお答えします。ではありますが、体操は全国民の体育に大変重要な点で、当面の問題の本質を欠いております。欠けております点は;
1.色々な体操の動きは、意味を持っていませんから、自ずとやっている人に興味を失わせます。
2.それを実践しても、それに続きく利点が派生して来ません。
3.スキル(この言葉を特別な意味に使っています)の獲得が、他の運動のように体操では追求できず、または得ることが出来ません。
  体育の全ての分野を一寸見渡しましたところでは、私には、体育に必要な条件を充たしている理想的な体系は未だ見つけ出せてはおりませんと、こう申し上げておきます。理想的な形は、最善活用に基づいた研究からのみ創り出すことが出来るのです。理想とする条件や要求を全て充たす第一条件は、オールラウンドな身体発達のシステムが工夫されなければなりません。次に運動には何か意味を持たせて、興味を引くようにしなければなりません。繰り返しますと、運動を行うために大きな空間や特別な衣装、用具を求めるべきではありません。更には、グループでも個人でも行えるようにしなければなりません。
  これが全国民の体育を満足させるシステムの条件、もしくは要求であります。首尾よくこれらの要求を充たせたならば、そのシステムが初めて最大効率による身体教育のプログラムであると見なせる事でありましょう。
  私は長年この問題を研究してきて、これら全ての要求を満足させ得る、2つの形を創り上げました。

注1 東京高等師範学校
注2 夏季大会、7月30日?8月14日。日本選手の獲得金メダル数7個(西竹中佐:馬術、南部:三段跳び、水泳6種目中5種目)、日本選手団は開会式に軍服で入場。1929年の世界恐慌の影響で参加国は少なかった。
注3 天神真楊流の福田八之助と磯正智、起倒流の飯久保恒年のこと。
注4 用いられた技は、「横捨身」の類であると推定される。

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