「人生行路 唯有一耳」(人生の行路、ただ一つあるのみ)とは
大意:
人間の進むべき道はただひとつである。
成功の絶頂に立っても、失敗落胆の底にあっても、進むべき道はひとつである。成功の頂点にあっても気を緩めずそこからさらに先へと最善の道を求めてゆこう。失敗してもやけを起こしたり煩悶したりするのは精力の無駄遣いである。失敗は失敗として、そこから自分の選びうる最善の道へ進むのが精力善用である。
進むべき道は「精力最善活用」主義に従ったただひとつの道である。
柔道を修行し精力善用主義に則(ノット)っている者は、いつでも自分が進むべき道を見出だすことができる。
柔道の修行は智徳の修養をもってはじめて光機を放つ(光り輝くほど素晴らしく意味あること)のであるが、それが実際生活に顕(アラワ)れぬ以上は完成したるものということができぬ。その実際生活に顕れる仕方は実に多端(タタン:複雑で多方面にわたっていること)であるが、最も手近なる応用は、各自の心を修める上にと、日常生活の上になければならぬ。もし柔道を修めた者の中に、いたずらにおのれの過失を悔い悲しむ者があらば、それはいまだ柔道の奥義を解した者ということはできぬ。過失は過失として自覚することはもとより願わしいことである。しかし過ぎ去った過失についていたずらに後悔悲嘆しても何の益もない。むしろ過失たることを認めたる以上は、再び同様の過失を繰り返さぬようにし、いかにすればその過失を贖う(アガナウ:つぐなう、とりもどす)ことができるかということを考慮し、できるだけ努力して善いことをしようとし、寸隙(スンゲキ:ほんの少しの間)も無用のことに精力を費やさぬように心がけねばならぬ。また柔道を解している(理解している)者は、みだりに忿怒(フンヌ:憤怒、おおいに怒ること)することはないはずである。忿怒することは情性(ジョウセイ)が理性を支配して(感情が理性を支配して)、人が冷静の精神状態を失った時に生ずる現象である。忿怒してなんの益があるか。多くの場合は、おのれの精力を余分に減損し、他人に不快を感ぜしむるか、また嘲笑せらるるのが落ちである。不平をいうこともそうである。不平をいうて、おのれを益しまたは他を益する場合はほとんどない。多くは自分に不愉快を感じ、他人にも悪感情を起さしめ、何の利するところもない。そういうことをしている閑(ヒマ)時間があるなら、おのれのなすべきことを遺漏(イロウ)なく成し遂げ、再び不平の起こる原因を除去するに越したことはない。煩悶(ハンモン:色々悩み苦しむこと、苦しみもだえること)というようなことも同様、柔道の精神的修養のできた者には生じないことである。一体人は何を煩悶するのであろう。煩悶はいくらも行く途(ミチ)がある、どちらを行こうかと迷う場合に生ずる精神状態であるが、本来柔道の教えでは、一つしか行く途はないのである。心身の力を最も有効に使用するということが柔道の教えである以上、一番善いと思うことをしさえすればそれでよいのである。予(ヨ:私、嘉納師範のこと)が毎々(マイマイ:いつも)いうように、「人生行路唯有一耳」(じんせいのこうろ、ただ いつ あるのみ)八字がこの意味を尽くしている。ある人はそれでも最善の途(ミチ)がいずれか分からぬ時はどうすると難ずるかもしれぬが、それは一通り考えはしなければならぬ場合はある。しかし考えるのと煩悶は違う。そしてその考えることも大抵の場合そう長い時間を費やす必要のあるものではない。あたかも旅行する時、岐路(キロ:分かれ道)があって聞く人がなかったら、人は何時間とか何日とかいうほど立ち止まって煩悶しているか。そういうことはあるまい。必ず一考した上、まずこれであろうと考えた方をえらんでその方に行き、それが間違っていたならば、その場合に新たに判断して正しいと思う方向に進むであろう。何も煩悶している必要はない。それと同じように、すべてのことは解決されるのである。柔道を修めている者は、せめて以上述べたような単純なことで無用の苦しみをしてもらいたくないのである。
(「講道館柔道の文化的精神の発揮」嘉納治五郎『有効の活動』第8巻第2号(大正11年))
柔道の活かす殺すの研究は、結果「精神最善活用」の教えを生み出し、真剣勝負のすべての原則となったが、この原則は人間生活の万般(すべて)のことにも応用できるのである。衣食住にも社交上にも、この原則にて、精神最善活用の教えは、あらゆる精力の活用によって、最大の効果をもたらすことを意味する。ゆえに平素の社会生活においても「怒る」というようなことはこの原則に反している。人が怒るということは、それ自身が精神の消耗である。怒ることにおいて何が人を益(エキ)し、おのれを益するところがあろうか。怒った結果は、自己の精神を消耗し、一面には人に軽蔑せられ、嫌われるくらいが落ちである。してみると、精力最善活用主義からは、人は怒ることのできないはずである。
そのほか、失敗し、蹉跌(サテツ:見込みが外れ、しくじること。失敗)して悲観煩悶(ヒカン ハンモン:心を痛め、もだえ苦しむこと)することも、不平不満を抱くことも一種の精神消耗である。喧嘩、反目(ハンモク)みなこの原則に反している。
柔道修行者はこの教えを体して、大いに慎んでもらわねばならぬ。いかなる場合に臨んでも、人間の進むべき道はただ一つである。いつでもその場合に当たって、どうするのが適当であるかを考究し、その方面に進むのが唯一の道である。
予(ヨ:私)は一つの語を作って平素(ヘイソ:普段から)人に示している。
人生行路唯有一耳
というのがそれである。この主義で、日常自己の身を処してゆくのが最も必要である。
人間が成功の絶頂に立っても、進むべき道は一つである。ひとたびは失敗落胆しても、勇気を取りなおして、進むべき最上の道を辿らば、たちまち前途に光明を認め、その境遇は漸次よくなるのである。どこにも考察すれば良き道はある。柔道を修行し、精力最善活用主義を奉ずるものは、おのれが進むべき道を見出だすがゆえに、いつでも心が安穏で、楽しく、進取的である。人間の最も進んだ精神生活は、この主義を徹底的に体得した者によって、はじめて営まれ得るものである。
(『柔道極意教範』嘉納治五郎(大正14年))