岡野好太郎 Yoshitaro OKANO(1885〜1967)
生年 | 1885年4月24日 |
入門 | 1906年3月30日 |
初段 | 1906年11月10日 |
二段 | 1908年5月6日 |
三段 | 1908年11月15日 |
四段 | 1910年10月23日 |
五段 | 1916年1月9日 |
六段 | 1926年5月31日 |
七段 | 1933年6月1日 |
八段 | 1937年12月22日 |
九段 | 1948年5月4日 |
十段 | 1967年6月2日 |
没年 | 1967年6月2日 |
1885(明治18)年、香川県小豆郡土庄(とのしょう)村に生まれ。17歳の頃より天神真楊流柔術・無双流柔術を学び、3年後、20歳の時に講道館へ入門する。
柔道の面白さに目覚めた岡野は、柔道の専門家を目指し、京都にあった武道の専門家を育てる大日本武徳会武術教員養成所へ、第1期生として入所を果たしている。この武術教員養成所の柔道教授は、磯貝一、永岡秀一らであった。磯貝は、嘉納師範より関西への講道館柔道普及の命を仰せつかり、京へ骨を埋める覚悟で赴き、今や武徳会を束ねている重鎮である。彼は武術教員養成所で育つ生徒の質によって、当時勃興しつつあった武道教育の盛衰が大きく左右されると考え、強い責任感を持って養成所の教育にあたった。岡野も磯貝・永岡を師と仰ぎ、厳しい稽古に耐え、修行を積んでいく。そして1907(明治40)年に武徳会青年演武大会において優勝を果たし、明けて1908(明治41)年の青年演武大会でも優勝を飾り、嘉納師範が所蔵する刀を贈られるなど目覚ましい活躍を遂げ、次第に「岡野強し」と関西に噂される存在となっていくのであった。
岡野はこの頃、特に寝技の研究に没頭した。身長が人一倍低かったので、寝技を徹底するように勧められたからであった。岡野は寝技について以下の様に語っている。
寝技表現の際、相手が自分の攻撃を阻止しようとしたときは、その防禦を一気に突き破るべく強引に攻撃することもあり、その防禦の鉾先を避けつつ、そのまま現状を保持して攻撃の時機をうかがい、相手の防禦の隙をねらって、機を見て猛然と相手を攻撃しなければならないこともある。誤れば反対に相手に制圧されるから、攻撃の機をとらえた時は相手を制圧するか、制圧されるかという極み立つわけで、この難関をとっさに破るよう、相手の動作に順応して間断なく攻撃しなければならない。自分が守勢にある場合も同様に、常に態勢挽回のチャンスを窺い、絶えず工作して優勢への転位を図るのである。寝技の醍醐味といったものはこうした呼吸の中にある。
またこの頃より、第六高等学校での柔道教授をはじめ、岡山医専・武徳会岡山支部・岡山県警、また第八高等学校、戦後は新制名古屋大学など、特に学生柔道の指導に励んだ。1967(昭和42)年6月2日、岡野は講道館より十段位を贈られ、そして同日82歳でこの世を去った。
参考:「講道館柔道十段物語 学生柔道を牽引した寝技の鬼 岡野好太郎」本橋端奈子
講道館柔道十段物語「学生柔道を牽引した寝技の鬼 岡野好太郎」全文はこちらからご覧ください。
(初出:講道館機関誌「柔道」2010年10月号)