栗原民雄 Tamio KURIHARA(1896〜1979)
生年 | 1896年5月21日 |
入門 | 1917年1月11日 |
初段 | |
二段 | 1917年3月15日 |
三段 | 1917年6月10日 |
四段 | 1919年5月25日 |
五段 | 1922年8月14日 |
六段 | 1928年2月5日 |
七段 | 1933年6月1日 |
八段 | 1937年12月22日 |
九段 | 1948年5月4日 |
十段 | 1979年10月7日 |
没年 | 1979年10月8日 |
1896(明治29)年5月兵庫県姫路市生まれ。県立姫路中学校時代より柔道を始める。在学中、兵庫県姫路師範学校との対抗試合で山形為一とあたり、栗原は、山形の固技になす術なく敗れた。この敗北が相当悔しかったのであろう、栗原は以後立技だけでなく、固技の練習に心血を注いでいく。彼の生涯における敗北はこの1度だけであったという。
中学の恩師・根木金一の強い奨めを受けて、栗原は柔道家を目指すことを決意する。そして、磯貝一を保証人として1915(大正4)年、19歳で大日本武徳会の武道専門学校へ入学を果たすのであった。講道館入門は2年後の1917(大正6)年で、入門と同時に初段に編入されるほどの実力を既に身に着けていた。
栗原の歴史に残る名勝負は、1929(昭和4)年5月に行われた、牛島辰熊との天覧試合指定選士決勝戦が挙げられるであろう。この誉の天覧試合において優勢勝ちを飾った栗原は、日本刀一振を下賜された。かれは、この日本刀を生涯大切にしたという。
また、母校である武道専門学校を皮切りに、第三高等学校・京都府警・京都帝国大学などで柔道教師を勤めた。終戦後は一時公職追放の憂き目に遭うも、京都市内に私財を投げ打って柔道場を作り、青少年の育成指導に当る。その後追放が解除されると、立命館大学等で再度柔道の指導に当り、京都における柔道の普及に大きく貢献するのであった。
栗原はこれらの功績により、1979(昭和54)年十段へと昇段し、その同年10月8日逝去する。享年83歳であった。
参考:「講道館柔道十段物語 「努必達」武専出身の寝技の名手 栗原民雄」本橋端奈子
講道館柔道十段物語「「努必達」武専出身の寝技の名手 栗原民雄」全文はこちらからご覧ください。
(初出:講道館機関誌「柔道」2011年10月号)