広瀬武夫 六段 Takeo HIROSE(1868〜1904)
生年 | 1868.5.27 |
入門 | 1887.11 |
初段 | 1889.8 |
二段 | 1890.11 |
三段 | 1893.1 |
四段 | 1899.4 |
五段 | |
六段 | 1904.4 |
没年 | 1904.3 |
1868(明治元)年5月27日、大分県竹田町に生まれる。1883(明治16)年岐阜県高山より上京、海軍予備校攻玉社に入学、1885(明治18)年11月海軍兵学校に入学。嘉納師範の「柔道は技を覚えるだけでなく、これによって鍛錬された心身をもって、学者・官吏・商人・軍人などの何の職業についても、国民としてなすべきことを自ら選んで当たることである」との教えに接して感激し、1887(明治20)年11月講道館に入門。
攻玉社・兵学校時代は授業の前後を割いて講道館に通い、艦隊勤務になっても講道館に寄ることを忘れず、昇段を重ねていった。日露戦争において旅順港口に船を沈めてロシア艦隊を港内に封鎖する作戦をとった時、広瀬(軍艦朝日水雷長)は閉塞隊に参加し、第1回(1904年2月24日)は報国丸を指揮し見事成功したが、第2回(3月27日)にも参加し、福井丸を指揮して港口に突進、敵の砲弾を受けて壮烈な戦死を遂げた。平素ならびに開戦以来の行為は、軍人の鑑であるとして軍神として仰がれた。
嘉納師範は、4月8日六段を追贈してその功を讃えた。享年37。