中野正三 Shozo NAKANO(1888〜1977)
生年 | 1888年1月6日 |
入門 | 1905年3月19日 |
初段 | 1907年3月23日 |
二段 | 1908年1月12日 |
三段 | 1909年5月26日 |
四段 | 1912年5月26日 |
五段 | 1918年1月13日 |
六段 | 1926年12月15日 |
七段 | 1933年6月1日 |
八段 | 1937年12月22日 |
九段 | 1948年5月4日 |
十段 | 1977年12月21日 |
没年 | 1977年12月22日 |
1888(明治21)年、新潟県中蒲原郡新津町字草水生まれ。少年時代は父・兄より柔道と剣道を習う。17歳で上京し、1905(明治38)年3月講道館へ入門する。
この頃毎日道場に来ていたのは横山作次郎、半田義麿、伊藤徳五郎らであったという。柔道の稽古に当たっては、兄から「右技ばかりやっていていざという時にどうするのだ、右も左も出来なくては満足な柔道ではないぞ」と常々諭されており、その言葉に従って彼は左右どちらでもとれるように稽古を積み、更には日常生活においてもペンや箸を左手で持つなど、左右両利きとなるよう努めた。片方だけの技では、進歩もつぎ足で歩くように遅々としてしまう‐という信念の下、左右平等に技を習得していった。
得意技は跳腰や内股で、中野の技について、明治末年ごろの講道館下富坂道場の描写にこの様なくだりがある。
一度跳腰を行うやその勢い当たるべからざるもので一同鳴りを静めて拝見する。払釣込足、大内刈、背負投など得意で、跳腰は最も得意とするところで、たいていの者はこれで飛ばされる。如何なる大敵に対しても、また小敵に対しても、終始自然本体を保ち少しも頑張るとかいうことはない。これが同氏(中野)の多くの業を連発し得る理由でまた最も美しいところである。
片手で跳腰を決められるほど、この技に長けていたという。また、中野の柔道が「美しい」と表現されているように、どんな相手でも取手を争うことなく相手に自由に取らせ、その上から楽に握り自然体に構えて、「八方開き」の状態で稽古をつけていた。
中野は1909(明治42)年21歳にして早くも警視庁柔道世話掛を拝命し、その後数十年に亘り、皇宮警察・日本大学・慶応義塾等の柔道教師も歴任していくのであった。
そして1977(昭和52)年12月22日、88歳で永眠。講道館は中野の功績を讃え、12月21日付をもって彼に講道館柔道十段を贈った。
参考:「講道館柔道十段物語 左右自在、稀有の名人 中野正三」本橋端奈子
講道館柔道十段物語「左右自在、稀有の名人 中野正三」全文はこちらからご覧ください。
(初出:講道館機関誌「柔道」2011年7月号)