田畑昇太郎 Shotaro TABATA(1884〜1950)
生年 | 1884年4月6日 |
入門 | 1900年2月4日 |
初段 | |
二段 | 1904年8月9日 |
三段 | 1906年11月10日 |
四段 | 1908年8月7日 |
五段 | 1912年1月8日 |
六段 | 1919年1月8日 |
七段 | 1926年11月1日 |
八段 | 1932年11月20日 |
九段 | 1937年12月22日 |
十段 | 1948年5月4日 |
没年 | 1950年5月25日 |
1884(明治17)年、大阪府嶋下(しましも)郡三宅村大字小坪井に生まれる。京都府第一中学校 在学中に講道館京都分場へ入門、すぐに頭角を現し「柔道の天才」と呼ばれ一目置かれる存在となる。1904(明治37)年5月に行われた第9回武徳祭演武大会では、中学5年生ながら出場を果たし、見事神奈川県代表の五十嵐忠吉を破って武徳祭優等賞にあたる銀牌を授与されていることからもその強さが読み取れよう。
田畑の柔道は、その頭の良さもあってか理詰めで、その修業にはさまざまな工夫を凝らしていた。投げられ方の稽古は投げる稽古よりも難しいと考え、家の庇や垣根の上、また学校にある横木の上に仰向けに寝転がり、そこから体をひねってうつ伏せや横向きに落ちる練習を繰り返し行っていたという。また、1メートル程の高さに縄を張り、それを飛び越えざまに宙返りをする、という練習まで熱心にやっていた。ただ教えてもらうだけでなく、それを自分なりに思考し体得する「自得」を座右の銘に掲げていた、田畑らしい修行ぶりであると言えよう。彼は1910(明治43)年、武徳会の武道専門学校助教授を任じられ、以降京都での柔道の発展に尽くすこととなる。
田畑の生涯における名勝負は、1911(明治44)年第16回武徳祭及び大演武会での徳三宝 との乱取と、1934(昭和9)年、皇太子御誕生奉祝天覧武道大会での三船久蔵との特選乱取が挙げられる。
1948(昭和23)年、柔道有段者会が発展的解散をして新たに各都道府県連合が順次組織されていった。田畑は、その京都府柔道連盟の初代会長に就任し、戦後の関西柔道復興に尽力するも、やはり随分苦労をしたようである。同年5月4日、嘉納師範の10周忌法要に際して十段への昇段を許されるも、彼のその苦悩が霽れることはなかった。そして、その責任感ゆえの心労がたたってか1950(昭和25)年、田畑は急逝するのであった。享年66歳。まだ若い田畑の急死を柔道界の誰もが惜しんだという。
参考:「講道館柔道十段物語 武徳会出身の麒麟児 田畑昇太郎」本橋端奈子
講道館柔道十段物語「武徳会出身の麒麟児 田畑昇太郎」全文はこちらからご覧ください。
(初出:講道館機関誌「柔道」2010年7月号)