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正力松太郎 Matsutaro SHORIKI(1885〜1969)

正力松太郎

生年1885年4月11日
入門1907年11月10日
初段1908年1月12日
二段1908年11月15日
三段1911年2月5日
四段1919年5月25日
五段1926年12月14日
六段 
七段1952年5月20日
八段 
九段1962年11月17日
十段1969年10月8日
没年1969年10月9日

 1885(明治18)年、富山県射水郡枇杷首村に生まれた。少年の頃は水泳や剣道に打ち込み、柔道を始めたのは19歳で第四高等学校に入学してからのことである。正力は、学校の正課以外にも柔道部に入部し、放課後になると毎日道場に通って稽古に没頭した。生涯の友となる品川主計などは、この柔道部の朋友であった。
 この四高時代、正力には生涯忘れ得ない思い出がある。それは、京都第三高等学校・岡山第六高等学校との対抗試合である。嘉納師範はよく「対抗試合から愛校心が生まれ、愛校心から愛国心が生まれる。ゆえに対抗試合は大いに奨励すべきものである」と述べていたという。まさにその精神に則り、1907(明治40)年4月京都において対抗試合が行われ、正力は三将として出場した。対するは「武徳会の三羽烏」と謳われた三高の大将・小島友次郎二段である。試合の模様は以下に詳しい。
小島は四人の強敵と戦い、さすがに疲れて来たとはいえ、紅軍大将まで勝ち抜かんとする意気高く、まだ名もない参将正力がごときは歯牙にもかけていない。また正力も、まともに小島と戦っては、到底勝算のないことは知っていたので、昨夜来考え抜いて来た決し捨身の戦法に出ることにした。策を練った正力は小島と組むや、思い切って捨身の巴投に出る。よもやと思っていた小島は虚を突かれて、思わず正力の上にかぶさって来る。正力はさっとかわして小島の脇下から背後にまわるや、送襟絞にはいる。意表をつかれた小島は、あっという間もなく絞め落とされる。
正力は開始早々捨て身の巴投、そして間髪入れず送襟絞をきめた。この時、一瞬の静寂の後、地響きのような歓声があがったという。こうして、四高を悲願の初勝利へと導いたのであった。正力はこの勝利を、「この勝負で、僕は柔道の試合だけでなく、人生についていささか自得することがあった」と述懐している。それほどに思い出深い勝利であったのであろう。
 正力は四高卒業後、東京帝国大学へ進学すると同時に、講道館へも入門を果たし、更に柔道の修行に励んだ。その後、警視庁警務部長・読売新聞社社長さらに国務大臣等を勤める傍ら、実業界から柔道の普及に努め、1958(昭和33)年の講道館移転や東京オリンピック開催に向けての日本武道館の建設に大きく貢献する。これらの功績により、正力は1969(昭和44)年、柔道専門家以外で初の講道館十段となったのであった。

参考:「講道館柔道十段物語 実業界から柔道普及に貢献 正力松太郎」本橋端奈子

講道館柔道十段物語「実業界から柔道普及に貢献 正力松太郎」全文はこちらからご覧ください。  (初出:講道館機関誌「柔道」2011年1月号)