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飯塚國三郎 Kunisaburo IIZUKA(1875〜1958)

飯塚国三郎

生年1875年2月13日
入門1891年11月23日
初段1893年9月24日
二段1895年1月13日
三段1896年4月5日
四段1899年1月8日
五段1901年8月13日
六段1908年6月3日
七段1916年1月9日
八段1922年2月5日
九段1937年12月22日
十段1946年5月4日
没年1958年7月25日

 1875(明治8)年、栃木県都賀郡幡張村に生まれる。1888(明治21)年13歳で高等小学校を卒業後、立身出世を志して栃木の実家を飛び出し、一人で東京へ上り翌年慶應義塾へ入塾、1891(明治24)年に講道館へ入門した。身体が小さいながらも猛稽古を重ね上達していき、背負投など得意技も身につけて他流から練習に来る大家を投げ飛ばすまでになる。そして、1893(明治26)年秋の紅白試合に飯塚は無段甲組の大将として出場、相手の大将を2度投げて、嘉納師範から直々に初段を許されている。
以降飯塚は順調に昇段を重ね、東京高等師範学校・慶応義塾・東京工業大学・仙台の第二高等学校・福岡師範学校・鹿児島県高等中学造士館などの柔道教師を勤めた。造士館では、寮の舎監も兼ねながら生徒らに柔道を教えた。はじめのうちは真面目に指導をしていたのだが、ある日の晩、就寝時間を過ぎても外で遊んでいる寮生を4,5人投げ飛ばしたのが大問題となり、カッとなった飯塚は辞表を叩きつけて東京に帰ってきてしまったことがあった。自分が正しいと思えば、それを曲げるのが難しい性格であろうことが窺えよう。しかし嘉納師範と流石に顔を合わせづらく、しばらく講道館から遠ざかっていると、師範から1通の書簡が届いた。
御書面拝見、愈々過日御話の方針に決定被成候(なされそうろう)由(よし)、然る上は特に一の注意いたし度事有之(これあり)候、
何事を為すにも用意周到なるを要す、他人の意見を聞く機会あらば虚心平気に之を聞き、冷静に判断せられ候、他人の意見を聞く機会無之(これなき)時は一挙一動の結果を考え、何事も苟(いやしく)もせぬ様被成度(ようなされたく)、是、其許(そこもと)に於ては成功に必要なる注意かと存候、
右、御答まで 草々不尽
(明治30年カ)四月十八日 嘉納治五郎
飯塚国三郎殿
飯塚の性格を咎めるでもなく、あくまで優しく成功への要点を説く師範に、飯塚への愛情が垣間見える。飯塚はこの書簡に滲み出る師範の情に深く感激し、これを表装して座右の銘として生涯大切にしたのであった。
 様々な場所で柔道教師を兼ねるとともに、飯塚は、今までの己の柔道修行を顧みて、身体を鍛えるばかりでなく精神をも鍛えることも広く伝える必要性に駆られ、自宅に私財を投げ打って至剛館という道場を設立し、師弟の指導に当った。これらの功により、1946(昭和21)年飯塚は71歳にして講道館より十段位を送られたのであった。1958(昭和33)年、83歳で病没。

参考:「講道館柔道十段物語 一押し二引き三かわせ、技は力の 花とこそ知れ 飯塚国三郎」本橋端奈子


講道館柔道十段物語「一押し二引き三かわせ、技は力の 花とこそ知れ 飯塚国三郎」全文はこちらからご覧ください。
 (初出:講道館機関誌「柔道」2010年1月号)