佐村嘉一郎 Kaichiro SAMURA(1880〜1964)
生年 | 1880年11月13日 |
入門 | 1898年7月24日 |
初段 | 1898年10月30日 |
二段 | 1899年10月3日 |
三段 | 1901年1月13日 |
四段 | 1907年1月13日 |
五段 | 1908年12月6日 |
六段 | 1913年6月15日 |
七段 | 1920年3月17日 |
八段 | 1931年1月25日 |
九段 | 1937年12月22日 |
十段 | 1948年5月4日 |
没年 | 1964年11月6日 |
1880(明治13)年熊本県託麻(たくま)郡大江村生まれ。父は、竹内三統流柔術の免許皆伝であり、「仁王の佐村」と九州一円で恐れられていた佐村正明である。佐村正明は警視庁柔術世話掛を拝命していたが、その際講道館柔道の強さに感服し、「嘉納さんには恐るべき門弟がある。この分だと近き将来、日本は嘉納さんの柔道が今までの柔術に代わって天下をとるようになるに相違ない」と感じたという。そして、まだ幼い息子の佐村に「もし柔をやるなら柔術ではなく嘉納講道館柔道を習うように」と言い聞かせていた。その影響もあり、佐村は1898(明治31)年18歳で上京し、講道館へ入門することとなる。
熊本の、肥後もっこすの気質を持ち、「佐村は悍馬のような奴だ」とよく評されていた佐村は、一度決めたら頑固・頑迷にもそれを曲げない精神力を持っていたのであろう。稽古相手がどんなに強くても、どんなに弱くても、それを嫌わずに苦手な相手を作らず、誰とでもやりあうことを信条に稽古を積み、前田栄世・轟祥太と共に「講道館三羽烏」と評されるまでに強くなっていった。
その実力を認められ、佐村は僅か19歳にして、嘉納師範から「講道館柔道を関西に扶植するように」との命を受け、京都に本部を置く大日本武徳会の柔道教授・磯貝一四段を補佐すべく京都へ向かった。そしてこの京都赴任を皮切りに鹿児島県高等中学造士館・広島高等師範学校・第八高等学校・福岡高等学校柔道教授などで長年に亘って指導に当り、後進の育成に努めたのであった。
佐村は、嘉納師範から恃まれると同時に、最も師範を信望した人物であったといっても過言はない。師範の、精力最善活用・自他融和共栄という理念に賛同しただけに留まらず、その有言実行の生き方に強く感じ入り、まさに師範を「神に近い人」と評すほどであったという。1931(昭和6)年51歳の時、嘉納師範より佐村を講道館の常任指南役に据えたいので東京に戻ってきてほしいとの打診があった。師範は、「月給が少なくて気の毒だが我慢してくれ」と言ったそうであるが、彼は、月俸が今までの500円より100円になることに甘んじて、師範のためなら月給などいくらでもいい、と喜んでこれを受けたという。ただ柔道一筋に、嘉納師範を信望しつづけた佐村は、1964(昭和39)年11月6日、師範の代わりに東京オリンピックを見届けるかのように、老衰でこの世を去った。享年84歳。その多大な功績に対し、講道館柔道史上4人目の講道館葬をもって送られた。
参考:「講道館柔道十段物語 剛毅木訥な「指南役」佐村嘉一郎」本橋端奈子
講道館柔道十段物語「剛毅木訥な「指南役」佐村嘉一郎」全文はこちらからご覧ください。
(初出:講道館機関誌「柔道」2010年4月号)