HOME > 嘉納治五郎師範の教え > 講道館の殿堂 > 永岡秀一

永岡秀一 Hideichi NAGAOKA(1876〜1952)

永岡秀一

生年1876年9月7日
入門1893年1月18日
初段1894年9月2日
二段1895年4月28日
三段1896年4月5日
四段1898年1月16日
五段1899年1月8日
六段1904年10月23日
七段1912年1月8日
八段1920年3月17日
九段1930年4月1日
十段1937年12月22日
没年1952年11月22日

 1876(明治9)年9月、岡山藩士・永岡知毎の長男として岡山県忍屋敷に生まれる。11歳の頃より安田道場で竹内(たけのうち)流柔術、半年ほど後には野田権三郎主宰の練武館で起倒流柔術を学び、「野田の小天狗」と称されるほどであった。
この頃、岡山へ武者修行に来ていた講道館二段の馬場七五郎に誘われて上京し、1893(明治26)年、講道館への入門を果たす。そして熱心に修行に励むこととなる。当時講道館では、稽古をした相手の名前を帳面に書いておき、修行者らはその稽古記録を励みにしていた。永岡も仕事などで稽古に出られなかった日は、次の日一番に帳面を確認して、他の者がどれだけ進んだかを見、遅れるまいと必死に喰らいつく程に稽古に熱中したという。他にも、砂を詰めた俵を何十回も持ち上げて腕力をつけるなどして身体を作り上げ、異例の速さで昇段を重ねていった。また、第一高等学校・東京高等師範学校・帝国大学・中央大学などの柔道教師を歴任した。
永岡は横捨身技を得意としており、その人柄も相俟って「業は捨身、人は永岡」とうたわれている。嘉納師範もその人柄を愛し、永岡のことを「永岡丹波守(たんばのかみ)」や「タンバ」と呼び、「タンバ、タンバ来い」と言っては、よく稽古の相手に彼を選んだという。永岡の生涯の名勝負としては1899(明治32)年の鏡開式での、横山作次郎との乱取が挙げられる。この乱取を観戦していた佐村嘉一郎によると、
(永岡は)横山の燕返しをくって空で回転して落ち、蛙のようにうつ伏せて両膝で受け止め、(この時には既に)両手で横山の道衣の前をつかんでいた。横捨身は二度かけたが、流れてきかなかった。永岡の横捨身で、横山の巨体は一間も飛んだが、上半身は浮いていた。最後は横山の右足が後に退いた瞬間、永岡は左の膝車にとった。はずみを喰って、横転した横山を、永岡はピタリと崩上四方におさえた。ここで検証に立っていた嘉納師範は『よし、それまで!』と声をかけられた
とあり、大先輩である横山に優勢で終わった様子が見て取れる。
 永岡は1913(大正2)年講道館指南役となり、また1937(昭和12)年には磯貝一と共に十段を授与されている。その後講道館は、第2次世界大戦後は学校柔道を禁止されるなど、存続の危機に立たされる厳しい時代が続いたが、そんな中でも永岡は、「私は嘉納先生に育てられ、引き立てられ今日にまでなった。この御恩は一生忘れられない。忘れていいものでない。たとえ講道館がこの際どうなろうと、私は一身の栄達のために講道館を去るとか見捨てられるものではない。私は嘉納先生のためにも講道館で死ぬのだから、私の肚は決まっている」と周囲に語っていた。永岡の、嘉納師範へのそして講道館への想いを察するに余りある言葉であろう。
 1952(同27)年77歳で死去。生前の功を評して特に講道館葬をもって送られた。

参考:「講道館柔道十段物語 和而不流 永岡秀一」本橋端奈子


講道館柔道十段物語「和而不流 永岡秀一」全文はこちらからご覧ください。
 (初出:講道館機関誌「柔道」2009年7月号)