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磯貝一 Hajime ISOGAI(1871〜1947)

磯貝一

生年1871年10月26日
入門1891年10月11日
初段1892年5月29日
二段1893年1月8日
三段1895年8月25日
四段1899年1月8日
五段1901年8月13日
六段1904年8月9日
七段1912年1月8日
八段1920年3月17日
九段1930年4月1日
十段1937年12月22日
没年1947年4月19日

1871(明治4)年1、延岡県船倉(現在の宮崎県延岡市)の士族磯貝家に生まれる。関口南蛮流柔術や戸塚派揚心流柔術を学んだ後、はじめ海軍軍人を目指し上京、その後1891(明治24)年10月に講道館に20歳で入門を果たす。朝4時から1ヶ月続く寒稽古の際には、1番に道場に飛び込む「一番槍」の座を守り続けるなど、柔道に没頭していった。二段になると同時に、磯貝は、嘉納師範から第三高等中学校での柔道教師の話を勧められた。嘉納師範は、ある程度段の進んだ門人を地方へ派遣し、講道館柔道の普及に心を砕いており、関西方面への普及の礎として磯貝が選ばれたのであった。嘉納師範からの「宣教師になったつもりで頑張ってくれ」との書簡に感銘を受けた磯貝は、柔道の為に、他の全てを捨て己を尽くそうと誓い、師範から譲り受けた白袴を宝物に、京都・関西での柔道普及に務めていくこととなる。三高の他に文学寮中等部や真宗第一中学寮・師範学校・同志社などで柔道教師を勤め、更に1895(明治28)年に設立した大日本武徳会や、その武徳会付属の武術教員養成所でも後進の指導に尽くした。
磯貝が三高に赴任したばかりの京都以西地方は、柔術は制剛照心流・起倒流・戸塚派揚心流・天神真揚流・不遷流などがそれぞれ道場を持ち、相当羽振りを利かせている状態であったという。抑技では彼らに劣っていた講道館柔道が関西に根付くかどうかは、磯貝の双肩にかかっており、彼は日々固技の研究に明け暮れ、年月をかけて講道館の名を広めていったのであった。当時を磯貝は以下のように振り返っている。
立技では相当やれた講道館柔道も寝技となると、さっぱり具合が悪い。しかし、試合ともなればこの二つが並び立たなければいかん。(略)より以上の優勢をもって、他流の寝技に対しなければ、講道館柔道の名誉に関するとともに、ここまでして貰った後援者に相済まぬ。いかに声を大にして講道館柔道の特徴、美点を論じようとも、畢竟試合に勝たねば弱者の悲鳴としかとられない当時の情勢であった。どうしても、講道館の寝技を完成せねばならぬ。他流他派を厭倒し去るが如き威力ある寝技を創り出さねば−という辛苦が、遂に講道館流寝技研究の発端となり、これが完成への精進となった。演武大会に上洛する永岡佐村等、講道館の錚々とともに、毎年三高の道場に閉じ籠り、戸を締切って、終日寝技の研究に没頭したのも、そのころの苦しい思い出だ。
 磯貝はこれらの功績が認められ、1937(昭和12)年、生存者初の十段となった。

参考:「講道館柔道十段物語 関西柔道界の礎 磯貝一」本橋端奈子


講道館柔道十段物語「関西柔道界の礎 磯貝一」全文はこちらからご覧ください。
 (初出:講道館機関誌「柔道」2009年5月号)